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名古屋地方裁判所 昭和48年(ワ)2303号 判決 1976年11月30日

原告

甲野花子

<以下仮名>

原告

甲田一郎

右法定代理人然権者・父

甲田二郎

原告

甲山春子

原告

甲川夏子

原告

甲野三郎

以上原告五名訴訟代理人

高野篤信

外二名

被告

甲野月子

右訴訟代理人

青柳虎之助

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  申立

(原告ら)

被告は、別紙目録記載の不動産につき、原告花子については九分の二、その余の原告らについては各三六分の一の割合による、各共有持分移転登記手続をせよ。

訴訟費用は被告の負担とする。

(被告)

主文と同旨の判決。

第二  主張

(原告ら)

請求原因

一、(身分関係)

昭和四四年一一月二七日に死亡した甲野はなには三人の養子があつた。訴外太郎(昭和一八年一一月二五日養子縁組届出、昭和四八年七月八日死亡)、原告花子(同日同届出)、被告月子(昭和二三年三月八日同届出)の三人である。太郎と花子とは昭和一三年三月三一日婚姻の届出をしている夫婦であり、夫婦共々はなの養子になつたものである。

太郎と花子夫婦の間には、訴外甲田秋子(原告一郎の母・昭和四〇年一一月三日死亡)、原告春子、同夏子、同三郎の四人の子があり、甲田秋子は昭和三七年七月四日訴外甲田二郎と婚姻の届出をして同人との間に長男たる原告一郎が出生したが、前記のとおり昭和四〇年一一月三日に死亡した。

二、(被告による移転登記)

甲野はなは、前記のとおり、昭和四四年一一月二七日に死亡したのであるが、同人の遺産全部である別紙物件目録記載の不動産(以下本件不動産という。)はすべて被告に遺贈され、その旨の所有権移転登記が経由されている。

三、(原告らの遺留分)

甲野はなの死亡に当つては、直系卑属のみが相続人となる場合であるから、太郎・花子の二人ははなの遺産の二分の一を法定相続分に従つて遺留分として相続する。そして、太郎は昭和四八年七月八日に死亡しているので、その妻及びその子らが太郎の右相続分を承継することとなり、そのうち第一子の秋子は太郎の死亡以前である昭和四〇年一一月三日に死亡しているのでその子・一郎が母の秋子に代襲して他の子(春子外二名)と同順位の相続分を承継することとなつた。

従つて、全相続分を一とした場合、原告らが遺留分によつて相続した遺産の割合はつぎのとおりである。

四、(結論)

しかるに、前記のように、被告は遺贈を原因として、はなの遺産の全部である本件不動産の所有権移転登記を経由しているので、原告らは前記遺留分の範囲において、被告に対する遺贈の減殺を請求するため、請求の趣旨記載の判決を求める。<以下省略>

理由

一請求原因一、二の事実及び同三のうち、その主張の身分関係は当事者間に争いがない。

そうすれば、一応、原告らははなの遺産につき遺留分権利者としてその主張のとおり遺贈の減殺を請求することができる筋合である。

二被告は、右遺贈減殺の本訴請求が権利の濫用であると主張する。

よつて検討するに、<証拠>並に前記当事者間に争いのない事実を綜合すれば、つぎの事実が認められる。

1  甲野はな(明治九年一一月生)は、勅任官の経歴をもつ夫・大吉が昭和七年に死亡し、昭和一一年当時は六〇才で、本件不動産の一つである名古屋市A区B町上の居宅(家屋番号七四番、木造瓦葺二階建、一階96.19平方メートル、二階56.19平方メートル、外に付属建物)にひとり住いをしていた。

昭和一一年頃、被告(大正九年六月生)は嫁入前の行儀見習いとしてはな方に住み込むようになつた。一六才であつた。

乙山太郎(明治三九年七月生)は、はなの甥であり、昭和一三年に原告花子と婚姻し、昭和一七年一月当時にはA株式会社の課長をして月額凡そ八〇円の給料を得ており、夫婦の間には秋子(昭和一四年二月生)、春子(昭和一六年四月生)の二人の子があつた。

はなには子供がなく、太郎ははなの甥に当るところから養子縁組の話が生れ、昭和一七年一月二八日には太郎とはなとの間にその話がととのつて、その頃から太郎夫婦とその子二人四人の家族はB町の前記はなの家に事実上の養子家族として同居するようになつた。この家には、前記のように被告が昭和一一年から住込んでおり、はなの気に入られて働いていた。その頃の一家の主な収入は太郎の前記給料とはな所有家屋の貸家の家賃(月額凡そ九〇円)及び勅任官をしていたはなの亡夫の恩給であつた。

昭和一八年九月になつて、被告は丙川四郎と結婚し、はな方を出て、名古屋C区D町四丁目に夫・四郎との新居を構えた。

同年一一月二五日、はなは太郎・花子夫婦を共に養子とする旨の養子縁組の届出をした。

2  右の養子縁組の届出がすんでから、太郎夫婦ははなに対し、その所有不動産全部の所有名義を太郎に書替えることを求めるようになつたが、はなは、「まだ早いからしばらく待ちなさい。」とこれを拒んでいた。そのため、はなと太郎夫婦の間には感情的な対立が生じ、昭和一九年三、四月頃には腹を立てた太郎がはなの面前で「親でもない、子でもない。」と乱暴なことを言ったり、キセルの頭で激しく食卓を叩いたり、ステツキを振回すようなこともあつた。

このような太郎の態度に、はなはいよいよ将来の生活の不安を感じ、頑なに夫婦の財産書替の要求を拒んでいたところ、昭和一九年四月(入籍後五ケ月目)、太郎夫婦は、「もう親でも子でもないから面倒を見ることはできない。」と言って、その子三人(昭和一八年六月、三女夏子出生)と共に、はな一人を残したまゝ勝手にB町の家を出て、E郡Fに転居、疎開してしまつた。

太郎夫婦の家族が出て行つてしまつてからは、一・二階を含せて五十余坪の広い家に六八才のはながひとり住いをしていたのであるが、当時は戦争が激しくなり、警察からは、大きな家に老人がひとり住んでいることは防空上好ましくないので、家を軍需工場の寮にでも貸して早く疎開するようにと命ぜられ、はなとしては行く当てもなく、途方に暮れるばかりであつた。

その頃、被告ははなを見舞つてはな方に立寄り、はなの途方に暮れている実情を知つた。そして、偶々被告の夫・四郎が同年四月に応召し、留守宅には夫の妹と二人住いをしていたところから、はなの窮状を見かねてこゝに引取ることとし、同年六月末、はなはD町四丁目の被告方に移つてきて同人と同居するようになつた。(その後はなが住んでいたB町の家は軍需工場の社長に賃貸された。)

昭和一九年一一月項になつて、戦争がますます激しくなつてきたため、D町四丁目に住んでいた被告・はならもさらに疎開を迫られるようになつた。被告としては夫の実家があるGに疎開したかつたが、Gに疎開することははなが反対であつた。被告がはなは伴つてくることには、四郎の実家の両親も難色を示していた。そこで被告の実家・岐阜県H町に疎開しようとしたが、実家でも被告一人ならともかくはなが一緒では困ると難色を示し、その代りに岐阜県J郡K村Lの駅前の料理屋の離れに疎開先を探してくれた。こうして、同年一二月、被告ははなと二人でLに疎開して来た。(夫・四郎の妹はGへ疎開して行つた。)

Lに疎開した被告とはなの二人は、はなの家賃収入と被告の夫の給料で生活していた。

3  昭和二〇年に戦争が終り、昭和二一年五月被告の夫・四郎が復員して来た。四郎は、Lに被告を訪ねて来て、被告が四郎の実家であるGに移り、そこで夫婦が同居することを強く求めた。しかし、被告が、老令のはなを伴つて来ることには反対であつた。四郎の実家の両親も同様であつた。当時、はなは神経痛の持病で寝たり起きたりしている有様で、このはな一人を残してひとりGに移ることは被告としてはしのび難いことであつた。そこで、被告は、四郎がLの疎開先に移つて来て、そこで夫婦同居することを求めたが、四郎は他人であるはなと一緒に生活することは嫌だとこれに応じなかつた。こうして、被告が進退に窮した生活を約十ケ月も続けるうちに四郎から離婚を求められることとなり、被告としては高令で病弱の上被告一人を頼りにしているはなを見放すことができず、やむなく昭和二二年三月この離婚に応ずるに至つた。

その間、昭和二二年頃から被告は木曾川下流工事事務所M出張所に事務員として勤めに出るようになり、その給料収入ではなと二人の生活を支えるようになつた。はなの家賃収入は当時物価の上昇に追いつかず、二人の収入の僅かなものになつていた。また、昭和二三年にははな所有の不動産(本件不動産)について財産税約八、〇〇〇円を納付する必要に迫られたが、はなに現金はないので、その時にははなの着物類と共に被告の嫁入着物、道具類も売払つてその金を調達した。

このようにして、被告ははなの面倒を見て来たのであるが、昭和二三年頃、はなから「これからも面倒を見て欲しい。そのために養子になつてほしい。」と頼まれ、これを承諾して、同年三月八日、はなとの養子縁組の届出をした。

4  以上のように、被告は老令、病身のはなの面倒を見て被告の給料収入を二人の生活の主たる糧として来た末、昭和二八年五月になつて、はなの賃貸家屋の一戸(以前にはなが住んでいた家の隣接の一戸)を明けて貰い、二人は名古屋市A区B町に戻つてくることができた。この家を明渡して貰うには運搬料として一万円を払う必要があつたが、この金は被告が調達したものであつた。

昭和三一年五月になつて被告は前記の勤め先を退職した。これは、はなが八〇歳にもなり、高血圧の上狭心症を併発し、日中もはな一人を置くことができず、四六時中介護を必要とするようになつたためであつた。退職後、被告は、はなが「先祖から貰つた物を売るつもりはない。」と頑張り、極度に切り結めた生活をしていたので力を尽してこれに協力し、傘張りやナプキン折り、ボタン付けなどの内職に精を出し、テレビははなが見たくないと言うので買入れることもなく、物見立山に行くこともなく、再婚の機会はあつたがはなが、再婚したら男と家を出ていつてしまうと危惧して賛成しないので、これを断念し、専らはなの介護とその財産の維持につとめてきた。

昭和四四年一一月二七日に至りはなは九三歳で、老衰からくる心筋梗塞のため死亡した。被告は当時すでに四九歳になつていた。

5  太郎夫婦が昭和一九年にはなの家を出てから同人が死亡した昭和四四年までには二五ケ年が経過している。この間、はなと太郎夫婦の間に往き来があつたのは、昭和二七年三月頃と五月頃に花子がLの疎開先にはなの病気見舞に来たこと、昭和二八年頃に花子が名古屋へ戻つて来ていたはな方に立寄つたことがあること、夫婦の子供が正月に一度はな方へ遊びに来たこと、それだけである。この間、夫婦の三人の娘と長男はそれぞれ結婚したが、はなにはこれらの結婚の通知も結婚式への招待もなかつた。はなが死亡した時、被告は太郎夫婦の転居先の連絡がなく、その住居が分らなかつたので連絡をすることができず、従つて太郎夫婦ははなの葬儀に出席することもなかつた。太郎は昭和四八年七月に死亡したが、死ぬまではなが既に死亡していることは知らず、この太郎が死亡したことから花子は始めてすでにはなが四年前に死亡していることを知るに至つた。

以上の事実が認められる。<排斥証拠省略>

右認定の事実によれば、太郎夫婦は昭和一九年四月に「もう親でもない、子でもない。」と言い放つて当時六八歳で病弱のはなを見捨てゝ家を出て以来、はなが死亡した和四四年一一月までの二五年間、はなに対して養子らしいことは何一つとしてしたことはなく、殆ど音信杜絶の状態で、事実上全くの離縁状態にあり、実質上の養親子関係は消滅していたと言うべきである。これに反し、被告は、はなが太郎夫婦に見捨てられてからその死亡に至るまでの長い間(昭和二三年三月からははなの養子として)、被告のいはば一生をかけて、実の子でも及ばないような誠意をつくして、はなのめんどうを見、介護に尽し、はなの財産を守り、本件不動産がはなの遺産として今日あるのもひとえに被告の献身と努力に負うというべきものであるから、この被告に対し、太郎夫婦には形式的に遺贈減殺請求権があることを根拠に遺贈の減殺を求める原告らの本訴請求は、法が設けた遺留分制度の趣旨にもとるものであり、権利の濫用として許されないものと認めるのが相当である。

被告の抗弁は理由がある。

三そうすれば、原告らの請求はいずれも失当として棄却すべく、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条に従い、主文のとおり判決した。

(藤井俊彦)

<物件目録省略>

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